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 「押す」と云うのは、云わば業界のスラングみたいなものなので、押すアレンジャー、と云っても、なんの事やら分からないかも知れない。  スタジオ業界、或いはもっと広い範囲で、芸能界一般に通用している言葉だが、「押す」と云うのは、録音、公演、リハーサルなどの、時間が延びる事である。
 と云う事で「押すアレンジャー」とは、「時間が延びるアレンジャー」と同義語である。
 スタジオの録音は、普通、時間単位で行なわれ、ミュージシャンのギャラも、時間単位でいくら、と云う風に決められている。
 基本的には拘束時間に対して、つまり4時間の仕事だったら、たとえ早く終わっても4時間分のギャラが支払われる。 もし、予定時間以内に終わらなかった場合は、オーバー分のギャラを支払わなければいけない、もし編成が大きかったりすると、主催者側にとっては、大変な負担に成る訳だ。
 ところが、新曲の歌モノをとる時など、普通は、一曲一時間で終わるべき録音が、2、3時間も掛かってしまう事は、意外と有るものだ。
 録音が時間オーバーしてしまう原因は、色々有るが

★)機械的なトラブル(録音機材や最近だとコンピュータのトラブル)
★)ミュージシャンあるいはスタッフの遅刻
★)楽譜が間に合わない
★)そのスタジオの前の録音が延びてしまった
★)アレンジの結果が打ち合わせと食い違った
★)現場でアレンジャーのアイデアがまとまらない
★)演奏が上手く行かない

等、色々有って、これらのトラブルがいくつかダブるケースもあるのだが、一番多いのは、アレンジャーのアイデアが決まらない、まとまらない、と云うのだろう。  「決まらない」「まとまらない」と云うと否定的に聞こえるが、次々と新しいアイデアが浮かんでくる、と云った方が良いのかも知れない。
 クラシック畑の音楽家であれば、ソルフェージュやスコアリーディングの訓練を受けているので、個人差は有るにしても、楽譜を見れば、どういうメロディーか、どんな響きがするか、など、イメージする事が出来るし、浮かんだアイデアを、そのまま(ピアノなど楽器の力を借りずに)楽譜に出来るはずだ。
直し方色々
 現場で楽譜を直す時、と云うのも、人によって様々である。  指揮台、若しくは副調室の方から口頭で伝えるのが普通だろうか。
 昔から時間が延びる事で有名だった故Aさんの場合は、口で云わずに、かならず奏者の所まで足を運んで、自分で楽譜を書き直していたものだ。  そのAさんの譜面は、元から鉛筆書きに成っている事が多くて、これはすぐに消しゴムで消せるから、と云うのが理由の様であった。  変更が多い時は、あちこちのブースを戸別訪問しなくてはいけないので、結構大変だ。  移動がスムーズに行く様に、先生にローラースケートをプレゼントしようか、などと云う話も有ったのだが。
 最近特に御活躍のBさんの場合は、スタジオに必ず自分のギターを持ち込んでくる。  メロディーを訂正する時は、ギターを弾きながら、こう云う風にやってくれ、と云うのを伝える為だ。  口で云ったり、歌ったりするよりは、早く確実に伝わるのだろう、但し、Bさんの仕事に参加して、聴音の能力が無いと、結構苦労する事になる。  普通の楽器の場合はいいのだが、ティンパニーの楽譜まで(トレモロとかも)、ギターで弾いてしまうので、なにかおかしい。
 コードの変更やリズムパターンなども、ギターで弾いてみせる事で伝える事が出来るから、結構便利の様だ。
 ちなみに、Bさんのギターは中々上手で、音色もかなりのものである。
 普通の楽譜では、8小節休みだと、単に「8」と書くところだが、変更の多い、演歌の楽譜の場合は、後からすぐ書き込める様に、空白のままで残してある事が多い。 Bさんの場合もそうだが、8小節休みだとすると、空白の小節が8個並んでいる。
 しかし、ポップス畑のミュージシャンの場合は、必ずしもそうとは限らない。 特に、演歌系の作曲家、アレンジャーの場合は、音を出してみないと、全体が見えてこない、と云うタイプの人が多い。 現場で音を出してみると、さらなるアイデアが泉の如く沸き出してくる、と云うタイプの人も居る。
 一応、現場に楽譜は用意されているのだが、やってみると、思った様な結果に成らない事が多いために、音を出しながら、フレーズやコード、リズムパターン、オーケストレーション等を少しづつ修正していく、と云う事になる。
 時には、テンポやキーを上げたり下げたり、と云う事もある。 それに加えて、作曲家や制作側から、或いは歌い手さんからの注文も、色々出てきたりすると、更に時間が掛かることになり、到底1時間では終わらない。

 ところが、不思議なモノで、こう云う感じの、時間の掛かるアレンジャーさんの方が、仕上がりが良い事が多いのだ。 勿論、手際が良くて、仕上がりも申し分無い人も居られるし、時間が掛かって仕上がりもイマイチと云うケースも有るかも知れないので、一概には云えないのだが、演歌畑で売れている、と云うか良い仕事をしているアレンジャーには、この延びるタイプの人が多い様な気がする。
 逆に云えば、普通に考えれば、そんなに時間ばかり掛かる人には、仕事の依頼が来なく成ってしまう筈だが、それでも、やっていられる、と云う事は、時にはスタジオやミュージシャンにオーバー分を支払うハメに成っても、それをカバーしても余りあるくらいの、他の人に出来ない、良いものを持っている、と云う事の証明、と云えなくもないのだ。
 まあ、ミュージシャン側としては、ギャラは時間単位で支払われるので、後のスケジュールさえ空いていれば、時間が延びるのは、むしろ歓迎される、と云う風潮もある。
 だが、中にはスケジュールが詰まっていて、途中で出て行かざるを得ないケースもある。 重要なメンバーが抜けたら、仕事が成立しなくなってしまう事もあり得る。 もし後日取り直し、と云う様な事態に成ったら、膨大な損害になる訳だから、ミュージシャンを手配するコーディネーターあるいは、いわゆるインペク屋さんと呼ばれる人達も、大変だ。
 予算に余裕が有れば、時間の掛かる人の場合は、1曲の録音に、普通は1時間のところを、予め1時間半、或いは2時間拘束と云うスケジュールを組む事も有るが、そう云う時に限って、意外と早く終わってしまったりもするから、皮肉なものだ。
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